六月三〇日 あじさいの話

 ある古い街にあるカフェ。木製の扉を開けると、カランカランと小気味の好いウェルカムベルの音が響いた。一足踏み入れて息を吸うと、マスターオリジナルのブレンドコーヒーと焼きたてのワッフルの匂いが鼻腔をくすぐる。客が運ぶ雨水が染みたニス塗りの床は、歩くたびに少し軋む。私は、バーカウンターでモーニングセットを注文し二階へ向かった。「二階」というよりも「屋根裏」というほうがしっくりくる、天井の低いフロアを抜けてテラス席に出る。雨の日にわざわざ外の席を取るなんてばかだ、と思うかもしれないが、私にとっては「雨の日だから」なのだ。

 テラスには三つの丸テーブルと六つの椅子。私は一番左の席に座る。これは定位置だった。

 ここらはあじさいの名所として知られているが、このカフェテラスから見えるのは、とりわけて好い景色だ。青と紫のグラデーション。アスファルトを打つ雨、新緑と黴の匂い。どれもが互いを引き立てる。騒がしい遊山客もいないから、まさに特等席だ。

 もちろん、それだけが理由でわざわざ雨の中、ここで食事をとるわけではない。一番の目的は雨の日にだけカフェの前の小路を通る少年だ。いつも、無色透明のビニール傘を差して、白地に校章の刺繍がされたワイシャツと黒いスラックスを着た少年。一目しただけでも、ゆるくウェーブした栗毛と陶器のような肌が目を惹く。よくよく見てみれば、すっと通った鼻筋に瞬きのたびに音を立てそうな睫毛、髪と同じ色の瞳、血色のいい唇と、まごうことなき美少年であることが誰の目にもわかるだろう。

 彼は小路を通っては少しの間、あじさいを愛でていく。そのときばかりはどんなに素晴らしいと思っていた景色も、彼の背景でしかなくなる。

 彼はなぜか雨の降っているときにしか現れない。同じ曜日の同じ時間であっても晴れや曇りのときには来なかった。当然、理由など判りはしない。私と彼は話したこともないし、おそらくあちらは認識すらしていないのだから。それでも、この時間を密かな楽しみとしていた。

 時期に梅雨が明けあじさいの季節も終われば彼が現れることもなくなるのだろうか。なんだかそれは、とても残念でならない。

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